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御年寄

御年寄は江戸時代の大奥女中の役職名で、老女と呼称される事もある。将軍や将軍正室への謁見が許される「お目見え以上」の役職のこと。
御年寄は大奥女中熟女の位の中では第二位に当たるが、奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する役職であった。
基本的に、将軍付、御台所(将軍正室)付とに大別される。但し、時代によっては姫君様付や将軍生母付の御年寄がいる事もあり、絵島生島事件の御年寄・絵島は、7代将軍家継生母・月光院付であった。
御年寄の中でも時代によって権力や格式に格差があったが、基本的には将軍付の方が上であったと言われている。
年番と月番とがあり、月番は毎朝四ツ時に、御殿向の「千鳥之間」に詰めて自身はそこを出ることなく、女中たちを呼びつけて一切を指図したという。夕方七ツ時になると部屋を退出したとされる。
ちなみに御台所付御年寄は「千鳥之間」ではなく、御台所住居近くにある「老女衆詰所」に詰めていた。また、江戸時代後期になると御用掛という役目がつくられ、中奥役人との内談等の御用を担った。
奥向の公務の一つに将軍の夜伽に関するものがある。将軍は、将軍付御中臈の中から夜伽の相手を選び、それを将軍付御年寄に伝えれば、その日の内にその御年寄が将軍の選んだ相手が寝所で待機するように指示を出した。その際、もし将軍の選んだ相手が御台所付御中臈であった場合、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合う事となっていた。自らの部下たる御中臈が夜伽の相手に選ばれ懐妊し、更にはその子が将軍世嗣となり、後々その世嗣が将軍宣下を受けた場合、その御年寄は大奥内で大きな力を持つことが出来た。
また、江戸時代後期の将軍側室の一部に「御年寄上座格」が与えられる者もいた。しかし、その女性が実際に御年寄の役職に就くというわけではない。
将軍の夜伽の相手は御中臈の中から選ばれる。夜伽の後、晴れて懐妊となれば、その女中は「側室」とみなされるが、格式は御中臈のままであった。
そのため、給与面、格式面において御年寄ないし上臈御年寄に相当する待遇として、「御年寄上座格」が与えられたとされる。
御年寄は、大奥女中熟女たちが住まう「長局向」の中でも最も格式の高い「一之側」を住居として割り当てられていた。
「一之側」は畳数にしておよそ七十畳程の広さがあったと言われている。一部屋に十間程度の座敷があり、厠、湯殿、台所なども備えられていたという。禄(給料)は主に「合力金」、「切米」、「炭」、「五菜銀」などが支給される他、引退後の屋敷や土地や地代も与えられたとされる。
また、外出時の格式は十万石相当のものだったと言われる。
上級女中たちは、「部屋方」という使用人や、自分たちの代わりに外での買い物等の私用を引き受ける「五菜」という下働きを雇っていたとされるが、御年寄は大抵の場合、一人で「部屋方」を十数名ほど抱えていたという。
公家(公卿)より御台所が降嫁する際に同伴してくる公家出身の女官たちは、大奥女中最高位の上臈御年寄の役に就いた。彼女たちは御台所や将軍の相談役を担い、大奥の典礼儀式を司った。公家出身であるため政治的権力は持っておらず、武家旗本出身の御年寄とは対立関係にあったという。
但し幕末になると大奥女中の職制が崩れていたとされ、12代家慶時代の姉小路は幕政にも大きく関与していたとされる。
しかし上臈御年寄に関しては諸説あり、先述した上臈御年寄の役にある大奥女中最高位の女中を単に上臈と言い、その上臈の役にある者で御年寄の役を兼ねていた者を上臈御年寄と言うという説や、上臈御年寄・小上臈・御年寄の総称を老女とする説も存在する。

老女

老女とは、武家や公家で、侍女の筆頭である熟女の女性のこと。また大奥の役職名である御年寄のことをいう。

大奥

大奥とは江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中たちの居所、また、江戸時代の大大名家の奥向の別称。
初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していた。しかし当時は、男性が政治を行う場である「表」と熟女女性が家政を行う「奥」の境界が存在していなかった。
この境界が江戸城に現れたのは、元和4年年、2代将軍・徳川秀忠が「大奥法度」を制定した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分されることになった。
後に3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。
慶応4年4月、江戸城の明け渡しが決定された時に、大奥は終焉を迎える。
開城に伴い、同年4月9日(旧暦)、14代将軍徳川家茂正室・静観院宮と同生母・実成院は清水邸へ、翌10日には、13代将軍徳川家定正室・天璋院と同生母本寿院が一橋邸へ引き移った。4月11日、海江田信義、木梨精一郎、水野彦三郎、渡辺清の4人が新政府代表として大手門より入城し、江戸城の引渡しを終了させた。
ちなみにこの時、15代将軍徳川慶喜は上野寛永寺に謹慎中で、正室・一条美賀子は大奥入りしなかったので、この場には立ち会わせなかった。
大奥一熟女の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。
御台所は、公家・宮家・天皇家から迎えるのが慣例となっていた(例外は、11代将軍徳川家斉御台所・広大院と天璋院の2人で、どちらも島津家出身であったが、近衛家に養女となった上で輿入れした)。
江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光夫人・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。
その立場に変化が現れたのは、6 代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表した事で、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、約100年もの間、御台所不在の期間が続き、その間は先代将軍の正室や将軍子女らが、大奥を主宰した。
将軍の側室は基本的に将軍付の中臈から選ばれていた。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。
もし御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合い、寝間の準備をしていたとされている。
寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」、男子を出産すれば「お部屋様」となり、そこでようやく正式な側室となる。
さらに、自分の子供が嫡子となって将軍になれば、生母として大きな力を持てるようになる。
5代将軍徳川綱吉生母・桂昌院はその最たる例で、存命中の大奥女性としては初めて従一位に叙せられるなど、絶大な影響力を持っていたが、側室や生母の影響力は時代と共に低下していった。
江戸時代後期、側室は、例え自分の子供が嫡子であっても女中の待遇を抜ける事はなく、子供が将軍になって初めてお上(将軍家)として遇された。
落飾後の側室は二丸御殿か桜田御用屋敷で残りの余生を過ごした。
大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのは女中たちであった。
ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも大奥女中は存在していたという。
女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。
女中は基本的に将軍付と御台所付の熟女女中に大別されているが、役職名は殆ど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。
また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼称していたという。

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